【山下 聡 略歴】
寿スピリッツの前身となる寿製菓 創業の地である鳥取県米子市出身。2010年寿製菓採用にてシュクレイの前身である株式会社つきじちとせへ入社。2012年株式会社つきじちとせと株式会社シュクレイが合併。2017年の株式会社フランセとの合併を機に2018年4月にマネージャーに昇格。2022年4月に史上最年少にて部長に昇格。
シュクレイの設立前年に入社し、2度の合併を経験した。1度目の合併は老舗の和菓子屋が工場を捨て、製造販売会社から企画販売会社に変わる合併。2度目の合併は企画販売会社が工場を持ち、製造販売会社として製販一体体制を築く合併。「この10年間、普通は経験出来ないであろうことを経理財務以外は大方やらせて頂きました」と語るようにシュクレイの設立から現在までの歴史を多角的な視点で語れる数少ない人物である。

入社当時の気持ち、思い出

とてつもなく大きなビジョン。そこに乗りたい

Q.入社動機、シュクレイの入社時の印象は?

シュクレイを含め、全国、海外とその規模を発展させてきた寿スピリッツグループ創業の地、鳥取県米子市の出身です。前身となった寿製菓は地元でも有名な企業で、創業会長である河越庄市会長が造った「お菓子の壽城」は今も米子のシンボル的存在です。

本当にお城なんですよ。その「お菓子の壽城」というのが私の通っていた幼稚園の目と鼻の先なんです。幼稚園に通っている時に、ちょうどそのお城が出来て、絵を描きに行ったり、見学に行ったり、馴染みがありました。でもその頃はまさか、大人になってその会社で働くとは思っていなかったですけどね。

「お菓子の壽城」について少し触れると、「お菓子の壽城」は中国横断道が開通する際に庄市会長が「お客様に休んでいただくための休憩所を作ろう、せめてトイレ休憩だけでもして戴く施設を」と27億円を投じて造ったものです。当時の寿製菓の年商が80億円。そのうちの27億円をそこに投じるという経営者はなかなかいないと思います。「地域社会への貢献、共存・共栄こそが、会社の存在意義である」という庄市会長らしいエピソードですよね。そして我々の根底にもそのスピリッツが根付いています。

私は6歳からずっと柔道をやっていて、大学は体育学科に進学しました。高校までが鳥取で大学から東京です。鳥取に帰って体育教師をしながら柔道を教えるという道も考えていたんです。中学・高校の保健体育の教員免許も取りました。やっぱり地方は「長男が家を継ぐ」みたいな文化もあるので、最終的には鳥取に帰ろうと思っていたんです。

でも何か若いうちにチャレンジしたいという東京への憧れもあって、東京で経験を積みながら最終的には鳥取に戻れる会社で働くことも選択肢にありました。そうすると本社が鳥取にある会社が有力な選択肢になりますよね。だから就職活動で受けた会社は、全社鳥取県です。

その時点ではお菓子には一切興味がなかったです。正直、鳥取県は大手と言われるところで考えると、ある程度限られます。そもそも企業数が少ないですから。そこで、大手や銀行系に加えて、地元で有名な寿製菓も受けることにしたんです。父親に「寿製菓も受けてみたら」と言われて。

私の就職活動の時期は2009年、2010年。ITバブル崩壊からリーマンショックの影響を受けた、いわゆる二度目の「就職氷河期」と言われる時期でした。どの会社の説明会に行っても、未来に対してあまり明るくない。「世の中の現状はこんなですけど、一緒に頑張れる人を募集します」みたいな感じで、全然ワクワクしないんです。

その中で寿製菓だけは違いました。河越誠剛会長(現 寿スピリッツ社長、シュクレイ会長)の講話を聴いて、すごくワクワクしたんです。未来を向いていて、明確なビジョンを持っている。「もう業種とか、何を売るとかは関係ない。この会社に入ったら面白いことが出来そうだな」と感じました。

もともと販売には興味があったんです。洋服が好きで、大学時代は将来の就職先にアパレル業界も考えていました。大学の立地も原宿や渋谷に近かったですし、アパレルのデザイナーやプロデューサーの方にお会いして業界の話を聴いてみたりしていましたね。でもアパレルは総合的に考えると、ユーザーとしてお金を払って着てる方が、ずっと洋服を好きでいられるなと思ったんです。どの業界でも仕事にすると、ただ好きということとはもちろん変わってきますからね。だからアパレルではない小売業で何かをしたいという気持ちがありました。販売士の資格も取得しました。

どの企業も未来がみえない時代に、とてつもなく大きなビジョンを語る河越誠剛会長。そのビジョンを聴いて、そこに乗りたいなと思いました。そしてその寿製菓が寿スピリッツグループとしてそのビジョンを実現させて来た歴史が今ここにあります。

起点 -ターニングポイント-

年商5億円の会社が数年で60億。10年で120億

年商5億円の会社が数年で60億。10年で120億

Q.現在のポジションに至るまでに起点となった出来事、マインドセットは?

若いうちに東京で勝負したい。その気持ちは入社時の面接の時から会社に伝えていました。本来面接では言わない方がいい事ですよね。「どこでも行きます」というのが合格への定説だと思いますので。

でも会社はそれをちゃんと聴いていてくれて、本当にギリギリで東京に配属してくれました。寿製菓で研修も受けていたので、「最後の最後で転籍になってしまうけど、いいですか?」という話があって、もちろんそれに快諾させて頂いて。

その東京の会社というのが「株式会社つきじちとせ」です。築地に本店を構える「ちとせ」は、創業大正元年、宮内庁御用達の老舗和菓子店でした。しかし、バブル経済の崩壊後にメインバンクが破綻。そのあおりを受けて「株式会社ちとせ」も倒産、廃業に追い込まれました。その商標権を引き継ぎ、「株式会社つきじちとせ」として再生させたのが河越会長だったんです。

私は寿製菓しか知らないですから「株式会社つきじちとせ」と聞いてもピンときません。でも、「河越会長がやっている会社だから、未来を向いていることは間違いないな」と思って東京に来ました。

配属は羽田空港。肩書きは販売員ではなく、営業職でした。当時「築地ちとせ」の常設店は空港内に3店舗。第一ターミナル特選和菓子館と今、東京ミルクチーズ工場とザ・メープルマニアがある第二ターミナル東京食賓館時計台3番前のお店、あとはフードプラザ。そのほかに派生ブランドみたいな感じで、かりんとうを東京食賓館時計台3番前と特選和菓子館のコーナーで売っていました。

今とは違って当時は、社員は空港に3人か4人くらいしかいなくて、営業というよりは「何でも屋」です。全部やる。派遣さんやマネキンさんのマネジメントを含む店舗の運営管理から、空港内のショップへの卸売、あとは自ら1個280円のかりんとうを売りまくる。

日課は、賞味期限3日の生菓子の試食を当日沢山切って、店舗に配って、タッパーを洗って、商品を運んでみたいな。「あれ、営業で入ったんだけど、試食切りとタッパー洗いと荷物運びしかしてないな」と思って(笑)。そんな新入社員1年目でしたね。


翌年2011年にシュクレイが設立。2012年1月に株式会社つきじちとせと株式会社シュクレイが合併しました。合併後も羽田空港を担当したので、羽田空港には計7年間いました。

私が担当していた頃、特に「築地ちとせ」時代は本当に苦しい時代でした。今と違って、取引先様からの評価も芳しくなかったと思うんですよ。「ちとせさん?」みたいな、ちょっとそんな時代もあった。新入社員って燃えているじゃないですか。めちゃくちゃ燃えて入って来てる。その熱量に対して何かギャップがありましたね。

鳥取では寿製菓というのはある程度シェアを持っていて、地元を代表する企業でした。「因幡の白兎」は地元では誰もが知る土産菓子です。でも「築地ちとせ」は全然そんな感じではなかったので、「あれ、違うな」と思って。

それがすごく悔しかった部分もありますし、やはり競合他社さんがすごく売っている中で、どうやってそこに食いついて行こうかなと考えました。売れている競合店のセールストークを聴いて、それをメモって。「パリッと」とか「シャリッと」とか、シズルワード言ってるなぁとか。「ふわふわの」とか言ってるなぁとか、ですね。

本当に分からなかったんですよ。だから何でもやってみました。空港の中で一番売る販売員さんに知り合い伝いで繋いでもらって、「うちの売場を見て、どう思いますか?」と訊いて。「販売員、おでこをちゃんと出させた方がいいよ」とか、「表情が見えるように」とか、そういうアドバイスをもらったりしながら、がむしゃらにやっていたという感じです。

そんな出発点から、合併して「築地ちとせ」もシュクレイになり、会社のポジションが上がっていくのを目の当たりにしました。東京ミルクチーズ工場の催事やザ・メープルマニアの催事は仲間と共に接客販売し、日々シンカすることで売上も伸長していきました。競合他社を押さえ、どんどん売れる。私も売場に入っていたので、すごく高揚感がありました。

たぶん、私が入社した当時の「ちとせ」って、売上10億もなかったと思います。5億とかそんなものだと思うんですけど。それが数年で60億円まで行って。さらに2度目の合併、フランセとの合併を経て、10年で120億円になった。そんな会社、中々ないと思うんですよね。成長グラフの角度がおかしいんです(笑)。

「楽しく取り組む」。1度目の合併を乗り越えた力

「楽しく取り組む」。1度目の合併を乗り越えた力

合併のタイミングは急速な出店拡大と急速な売上増に対して、人財が間に合っていないというのは明確にありましたね。「あれ、人いないけど、店、来月できるらしいよ」「ええー!誰がするの?!」って。私はまだ2年目でしたし、そんなノウハウもあるわけないので、とにかく毎日精一杯働くしかないなという感じでした。

いやもう、月1ぐらいで出店戦略が加速していくんです。人もいないのに出店していくので、そこだけ切り取ると不安な会社なんですけど、でもやはりそれだけ「東京ミルクチーズ工場」を出した時の業界のインパクトは強かった。

すごい数のオファーに応えることで急速に拡大はする。でも内部的にはしんどくて、「このまま行ったら、どうなるんだろう?」という危惧はありました。当時の社長は、河越会長でも現社長の阪本社長でもありません。グループ外からいらした社長だったので、新ブランドの立ち上げという部分では新しい考えを持った方だったんですけど、会社の方針は今とは違いました。

その中で現取締役の大坪さんの存在は大きかったです。大坪さんは、もともと寿製菓の東京営業部にいらして、シュクレイの立ち上げのタイミングで合流されたんです。その頃から大坪さんは「楽しく取り組む」を実践されていました。

「楽しく取り組む」というのは、経営理念手帳「こづち」(120の経営フィロソフィー)の項目にもあるもので、その後、大坪さんが販売部のスローガンに掲げ、現在に至っている私たちの風土のひとつです。

大坪さんと一緒に仕事をしていると、めちゃめちゃ楽しかったですし、「楽しく取り組む」をその時に理解できた気がします。本当は大坪さんもしんどかったみたいですけどね。なので、大変か大変じゃなかったかといえば、大変だったと思うんですけど、いま振り返れば面白かったなと思います。夜中にみんなでご飯食べたりして、目一杯やっていましたね。

その後、大坪さんはずっと私の上司になるんですけど、やはり「あの思いを後輩たちにさせてはいけないよね」という部分は自分たちの中にあると思います。言わないですけど、たぶん当時からいる人はみんな思っていると思いますね。

2度目の合併。実は結構ワクワクしている部分もあったんです

2017年4月、株式会社シュクレイと株式会社フランセの合併がありました。シュクレイにとって2度目の合併です。この時も大変ではありました、かなり。でも、こんなことを言ったら怒られるかもしれないですけど、実は結構ワクワクしている部分もあったんです。

正直1度目の合併、「ちとせ」からシュクレイになる時もだいぶ社内は揉めました。老舗の和菓子屋が工場を捨てる。製造販売会社から企画販売会社に変わる。それは一緒に働いてきた仲間にとっても私にとっても大きなターニングポイントでした。

製造販売会社でなくなったということは、当時主力であった生菓子の取り扱いをやめ、常温菓子中心の商品ラインナップに変更になったということです。当初、お客様からは「築地ちとせ、変わっちゃった」とか「何で今まで売れていた商品をやめて、こんな商品にしたんだ」とか、すごくネガティブな意見もたくさん頂きました。

でもやはり「自分たちは明るい未来のために、いま変革するタイミングなんだ!」って思って、それを乗り越えた先に、東京ミルクチーズ工場の成功やザ・メープルマニアの成功があったわけです。

だから2度目の合併で、その経験はすごく活かせるなって思ったんです。そこを経て、シュクレイという会社はすごく成長したので、「同じようにうまくいけば絶対行けるな!」というワクワク感がありました。合併される側、吸収される側からすれば、「ふざけるな!」という話なんですけど、ただ、私としては絶対良くなるという勝手な信念というか、思いを持っていましたね。


でもフランセにとっても買収や合併は2度目の経験なんです。1957年から続いたオーナー会社があって、それを大手菓子メーカーが買収して、次に寿スピリッツ、翌年にシュクレイと合併。同じグループでも別会社と考えれば3度目の経験です。

やはり、そこに対する不信感はめちゃくちゃありますよね。だから会議なんかでも、「夏菓子やめます」と言ったら、店長が来て「どういうことですか?そんなので売れるわけがない!」「どうしてくれますか?売り上げ」みたいな。めちゃくちゃ詰められて。

「夏菓子を売らなきゃいけない」という既成概念がある場所で闘って来た皆さんにとって、その意見は当たり前です。ちゃんと理がある。でも「夏だからゼリーじゃないと売れない」という思考を転換して、「別に夏でもチョコレートは売れる」というマインドで、それをしっかりお客様に訴求できれば、絶対売れると私は思いました。

現場の皆さんと話をして、意見をしっかり受け止めたうえで、信頼を得ながら、そのもっと上にある「あるべき姿」に持っていかなきゃいけないなと思ってやっていましたね。


要は市場性が全然違ったんです、シュクレイとフランセでは。シュクレイは駅・空港メインのお土産市場で売上を伸ばしてきました。でも、フランセは駅ビル、百貨店、あとは地域のスーパーマーケットなど、地域に根差した、本当に老若男女に喜んで頂けるブランドとして定着してきました。そもそも属性が違うものがくっついたので、「そりゃ違うだろうな」と。

私はフランセというブランドを見た時にめちゃくちゃポテンシャルを感じたんです。シュクレイは箱菓子でクッキー10枚入りとかじゃないですか。でもフランセのミルフィユって、すごくいろいろな種類があって、1箱に4種類とか入っているんですよね。そのバリエーションってシュクレイにはないなって。

それはやはり、工場を持っている強み。だから商品群がいっぱいある。クッキーもフィナンシェもケーキもあって、焼き菓子もあって…というバラエティーの広さでは、全然シュクレイブランドよりも幅が利くブランドだなとも思ったんですよね。

一方で、私が売場を見ていた時の課題感として、街のお菓子屋さんとしては根付いているけれども、ここから一個頭を出していくためには、もっと「フランセだから買いたい」と思ってもらえるフェーズにブランドを持ち上げないと、今の横浜銘菓コーナーに埋まっているままのブランドになるなと思ったんですよね。

シュクレイブランドの強みは多分そこだと思っていて、「ザ・メープルマニアだから買いたい」とか「バターバトラーだから買いたい」とか、買った時の高揚感だと思うんです。「やった!買えた!」みたいな、何かこう「わお!」と気持ちが躍る特別感。だからフランセも、そういう思いが持てるブランディングをしていけば、たぶんフェーズを上げられるなと思ったんですよ。

体を張った需給管理。それを支えた「未来力」

1度目の合併の時は、やはり入社1、2年目だったので無力だったんですよね。やれることも限られていた。あの時は売ることと、生菓子の廃棄をなくすことぐらいしか出来ませんでした。毎日発注を見て、ちょっとでも廃棄が出ないように商品を調整して。

廃棄が出ると利益がマイナスになるじゃないですか。ということは廃棄をなくせば、利益改善に繋がるなと思ったので、発注をもう調整しまくって。私に出来ることといったら、そうやって、ちょっとでも利益が出るようにするぐらいだったんです。

その経験もあって2度目の合併の時は、フランセの需給担当を私がやると買って出たんです。その背景には合併の1年前、年末の大欠品がありました。フランセの定番であるミルフィユが年末にない。それはもう大クレームになって。その話を店長たちからも工場からも聞いていました。

さらに欠品とは逆に、廃棄をものすごく出していたんです。本当に経営に直結するぐらいの廃棄の数、額でした。

要はこれ、全部利益なわけじゃないですか。本来はお客様に食べて頂くのが正しい姿なのに、過剰に生産されて、捨てられていく。せっかく工場で作ってもらっているのに、作り手にも申し訳ないし、全然三方良しじゃないなと思って。

それで、これはもう誰かが一元管理するしかないと思って、「私が発注を管理するから、私の指示がない限りは作らないでほしい」と工場側に伝えたんです。私がそこを頑張りさえすれば、廃棄がゼロになって、全部が利益になって、みんながハッピーになるなと思って。

でも初めて私が需給担当として工場に行った時は尋問みたいな感じでしたね。質疑応答で詰められるんです。要は信頼されていないじゃないですか。「どうしてくれるんですか」とか「本当にそんな発注管理できるんですか」みたいに。

正直恐かったですよ。フランセは商品数も一番多いですし、扱ったことのない商品だったので。なので本当に1回予測を立てるのに5時間とか6時間とか、過去何年分のデータも全部見て、自分で腹を決めて。誰も答えを持っていないので、誰に訊くわけにもいかないし、「しくじったら終わりだな」と思いながら常にやっていましたね。一方で、「ここで正確に発注出来たら、絶対信用してもらえるだろうな」という期待も込めながらですね。

たしか最初の年末だったと思うんですけど、私が出した発注計画に対して、「本当にこんなに売れるんですか」って言われたんです。「これ、また廃棄が出るんじゃないですか」「売れなかったらどうするんですか」と。でも私が4月から見て来ている中で、これは間違いなく行けると思ったので、「絶対売れるので、発注計画分100%作ってほしい」とお願いをしました。そうしたら年末、倉庫が空っぽになったんですよ。そこで信用してもらえたと思います。

それが出来たのも、チェレンジできる風土があったからこそだと思います。最大限善処した事については責められることはないので。十何年働いているんですけど、本当に怒られた記憶がなくて。

だから、やるからには本当に腹をくくって、「これしかない」というところまで突き詰めてやりますし、それをやらせてくれる会社なので、やれたというのが大きいと思うんです。別にフランセに精通しているわけでもないですし、合併してエリア担当になっただけですから。本当はこんな経験もない私がやっていいことじゃないと思います。

そうですね、当時私は28歳ぐらいですかね。工場の吉田マネージャーが40代。今だから笑って話せますけど、吉田さんとバチバチでした、その時(笑)。いまは全然仲いいですよ。吉田さんは横浜工場全体でリーダーシップを発揮されている方ですし、やはりミルフィユラインの長でもありますから。店舗の店長たちが買収・合併の繰り返しの中で感じている不安や懐疑と同様に、「信頼していいかどうか」という部分には慎重だったということだと思います。

でも合併時のそんな色々な出来事の中で私が思い描いていたのは、実は社員旅行なんです。みんなでハワイに行きたいなと(笑)。成功してみんなでハワイに行って、超楽しんでいる姿をイメージしていました、すごく楽観的なんですけど。でもそれぐらい未来は明るい。これを成功したら明るくなるんじゃないかなというイメージを持っていました。

グアムは2日で行けるけど、ハワイだと5日ぐらいは欲しいですよね。そうすると、かなり会社の経営が健全になっていないとハワイには行けないなと思って。そのためにはこれをまず成功させなきゃいけないなと(笑)。心の中に何か、そういうワクワク感みたいなものがありました。

喧々言い合っていた人たちが何年か後に、こうやって社員旅行に来て、ハワイのビーチで「あの時大変だったよね」って談笑している。それくらいハッピーに持って行きたいなと思ったんですよね。

働くとはどういうことか?私の仕事観

夢中になること。夢中になれば何でもできる

Q.あなたの人生において仕事とは何ですか?

夢中になることですかね、自分の中で。本当に色々とやらせて頂いていることもそうなんですけど、楽しいんですよね。やらされている感がないというか、「おもろい」という感じ。

努力って何か感情的に頑張らなきゃって思うと、「努力しなきゃいけない」という意識になるじゃないですか。でも、夢中になっていたら、勝手にやれる気力やモチベーションが出て来る。当然、部下を持っていて、自分の持たされている役割を全うするためにも努力する部分はあるんですけど、それも夢中になっているうちにやっていると思うんです。なので私は私が思っている以上に仕事が好きなんだなと改めて思います。

「これをやったら、もっと良くなるな」というものは無限にあります。それを常にやっていく。それも「ここまでやらなきゃいけない」と思ったら苦痛になるかもしれないですけど、夢中になっていると、自然と体が動く。

入社した時からずっとそんな感じで、夢中になっていれば、やれる領域も全領域だと思っていて。過渡期には商品企画もやったことがあるんです。当時、商品企画が一人しかいなくて、代打でやらせていただきました。当然全然分からないので、ロジスティックの佐藤取締役に相談して商品を一緒に作ったりしていました。

佐藤取締役はもともと寿製菓で工場を経験されて来た方なので工場やメーカーさんと繋がりがあるんです。「築地ちとせのお餅を作りたいんですけど」とか「煎餅の新しい味を作りたいんですけど」と相談して、メーカーさんのところへ一緒に連れて行って貰ったりしていました。

この10年間、普通は経験出来ないであろうことを経理財務以外は大方やらせて頂きました。なので、色々な面から「この商品、もっとこうすれば良くなるな」とか、「この販促物、もっとこうしたら良くなるな」とか、「店舗、こうしたらもっと良くなるな」とか、「販売員さんにこういう声掛けしたら、もっと良くなるだうな」とか、全領域でやれることはいっぱいあるなと感じています。

うちの会社って多分、やらされる事って、ほぼないと思うんですよ。だから、会議で会長や社長のお話を聴きながら、「これはもっとシンカ出来るな」とか、「この商品、もっとブラッシュアップ出来るな」と、頂いたヒントやアドバイスを具現化して行って、それが成功事例になって、また横展開する。それを繰り返しずっとやっている感じですね。もちろん売場は売場でお客様の声を直接聴いたり、肌で感じていますから、そこも吸い上げながらミックスしていくという感じです。

仕事が楽しくて集中しすぎると、ついつい家庭が疎かになってしまうので、妻にしばしば“ご指摘”をもらいますが、でも自分はめちゃめちゃ仕事が「おもろい」。だから課題は仕事と家庭の両立ですかね(笑)。それも努力しなきゃいけないことだと思っています。

人財教育。1日24時間のうちの8時間が楽しくなるように

そうですね、たしかに「おもろい」と感じる視点も新入社員の時から視野は広がってきたとは思いますね。新入社員の時はやはり「売れた」とか、一緒に働く仲間との気持ちの共有とか、そういう部分だったと思います。そこから段々視野が広がって、今日こうして振り返る機会を頂いて感じるのは、商品のことももちろんそうなんですけど、「人財教育、面白いな」と思って自分は取り組んで来たかなって思いますね。

それはやはり教職を取っていたから見えた部分や出来た部分もあると思います。でも何よりも、会社を発展させていくためには、ベースを、人財を、整えていかなければいけないという部分が大きかった。

黎明期や過渡期は人がいないので、入社して半年の新入社員を店長に任命するみたいなこともあったわけです。でもそうなって来ると、なかなか売場運営ってうまくいかない。クレームを沢山いただく時期もありました。

その中で、そこからもっと成長していくためには、まず店長を教育して、売場が単体でしっかりと回るようにしなければいけないですし、副店長以下も同じ意識を持ってやって行けることで、もっと安定した基盤が作れます。だから、教育というところには力を入れましたね。

なので、お客様からのお褒めの言葉や売場の仲間が接客等で表彰されることがすごく嬉しいんです。経営理念手帳「こづち」(120の経営フィロソフィー)を実践して、それがお客様に伝わって、またシュクレイの商品を買いたいと思って頂けることにすごい喜びを感じますし、そうやって一人ひとりが活躍している姿を見ていて、良かったなって思います。

私は店長に腹を割って話しますし、結構ズバズバ言うタイプなので、指導された一瞬は良く思わないかもしれない。でも結果的に仲間と切磋琢磨して高い目標を突破したり、社内・社外表彰をされたりして、最終的に「面白いな」って思ってくれていたら、私はいいかなと思っているんです。

やっぱり自分の中で「楽しく取り組む」がベースにあるじゃないですか。結局、「いま、面白い?」って訊いた時に、「面白いです。楽しいです」なのか、「面白くないです」の二択しかないわけです。面白くないと感じている場合は、不平不満や悩みがあるわけなので、それを一緒に楽しくしていく作業をしなければいけない。

1日24時間のうちの8時間。そこが楽しくなかったら、一日が楽しくないし、人生が楽しくない。会長や社長もそういうことをおっしゃられるんですけど、せっかくやるんだったら1日の3分の1を占める仕事が、楽しいという方が絶対良いと思うんです。

シュクレイで活躍・キャリアアップできる人とは、どういう人か?

主体的に取り組める×人の喜びに共感できる×経営理念への共感

Q.シュクレイで活躍できる人・キャリアアップできる人とは、どういう人だと思いますか?

まず、「何でも主体的に取り組める人」ですね。あと、「人の喜びに共感できるか」というところは大きいと思いますね。これは大坪さんから、よく言われていたんですけど、「上司の役割として、部下にどれだけ手柄を取らせられるか」というところがあります。

「いかに部下の成果を共に創り上げることができるか」というのも私たちの仕事だと思いますので、最終的に良かったね!って言えるような成功事例を一緒に創っていく。そこに喜びを感じられる人でしょうね。やはりそれだけの役職が付けば、部下もいっぱい出来ますしね。

自分もそれでテンションが上がりますし、それを実践できた子も、やり切った!楽しい!と思えるじゃないですか。そうしたら次の活力につながって、もっとやりたい!という感情に必ずなると思います。

最後にもうひとつ。「経営理念、こづち(120のフィロソフィー)に共感できているか」というところです。そこは私たちの絶対的な判断基準であるので、やはりそこに対してギャップがないことですね。シュクレイは、そこに対して全員が同じベクトルで向かっているので、指示命令がなくとも動けるんです。逆に捉えれば、個々に動いていても最終的にそこで合致する。その絶対的な判断基準、価値基準にギャップがないことが大事ですね

未来の自分、未来のシュクレイ

こづちの実践。背中で継承される会社風土

Q.これから、どのようになっていきたいですか? 自分と会社の未来力

弊社は「ブルーオーシャン400」(2026年3月期に売上400億円、経常利益80億円を突破する)という中期ビジョンを掲げています。売上は当然まだまだ足りていないですから、私の役割としては、やはり新規出店を加速させていくこと。そこが自身のミッションとしては一番大きな部分だと思います。

ただ、その中で「物心両面豊かになる」という部分も大事です。これは経営信条の中にも入っています。売上、利益の向上とともに、従業員がより充実して働ける職場環境を実現していくこと。その両軸を成し遂げないと、やはり「ブルーオーシャン400」は突破できないと思っています。プライベートが充実している方が絶対に仕事のパフォーマンスは上がりますし、より会社で頑張ろう!と思って頂ける部分もあると思うので、その部分は大事ですね。

そこを突破したら、もしかしたらハワイに行けるかもしれません。コロナ後、まだ社内旅行を再開できていないので、今期、来期しっかりと稼いで社内旅行を再開し、その後はハワイに行きたいですね。多分、来期で再開していないと「ブルーオーシャン400」を突破した時、ハワイには行けないと思いますので。


私としては本当に「部長」という感じはしないんです。役割として与えて頂いているものと捉えているので、別に部長だからいうのがない。売場がディスプレイ変更をしていたら行っちゃったりもしますし、現場感がすごく楽しいというか、一緒にそれを共有して何か創り上げるのがすごく面白いなと思っていますから。

そうですね、阪本社長もそうです。一緒に催事のディスプレイを変更したりしていました。「こうやった方がいいよ」ってアドバイスを頂いたりして。天ぷらせんべいの欠品寸前騒動の話もそうですよね。阪本社長に飯田取締役、佐藤取締役…、全員で工場のラインに入って。もう本当に幹部自ら泥縄式で経営を行うじゃないですか。経営理念手帳「こづち」にもありますけど、「今できる最善のことを全員でやろう!」って。私は、直属の上司でずっと来ているので特に大坪取締役の影響が大きいですけど、やはりそれらは背中で継承されて来た会社風土ですよね。

その背中というのは、まぎれもなく経営理念手帳「こづち」(120の経営フィロソフィー)の実践だと思います。

催事の商品欠品に車走らせて届けに行くのもそうですよね。大阪の阪急百貨店のお店に佐藤取締役と一緒に私も行きました。発注がうまく反映されていなかったようで、翌日販売する商品がない状況でしたので。 ちょうど繁忙期で誰も対応できなかったので、直接の担当ではなかったですが、瞬間的に判断して、佐藤取締役と一緒に東京から大阪まで車を走らせました。お昼頃出発して、閉店までには無事翌日販売分の商品を届けることができました。思い出に、たこ焼きを買って東京にとんぼ返りしましたね。

お客様・取引先様・仲間に喜んで頂くために。それと、私としては「上の方々がして下さったことを自分も体現しなきゃいけない」「それ以上のものにしなきゃいけない」と思っています。出来ていないですけどね。まだまだ出来ていないですけど、それをやっていかなきゃいけないなと思っています。

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